最弱の国・韓
六国同盟による合従軍を結成し秦(しん)に攻め込んで来た各国ですが、
この合従軍の発起人は趙(ちょう)の李牧(りぼく)であり、
総大将こそ楚の宰相(さいしょう)・春申君(しゅんしんくん)を担いでいますが、
実質の作戦指揮官は李牧です。
今回はこの合従軍と秦が激突した函谷関(かんこくかん)攻防戦において、
李牧が各国を何故ああいう配置にしたのかを考えていきたいと思います。
何故なら李牧は楚の天才・媧燐(かりん)をして、
やる事全てに意味があると言われた「中華で最も危険な男」だからです。
それを踏まえて最初に最弱の国と言われる韓(かん)の配置です。
この軍は函谷関の正面で斉(せい)の抜けた5国軍の真ん中に置かれます。
恐らくこれは、最も国土が小さく派遣した兵も少ないという状況で
劣等感を抱く韓の兵に対し、あなた達が必要で頼りにしていますよという
メッセージを含んでいます。
そして梯子(はしご)もかからない函谷関に対し、
それでも裏から入り口を開けた時に雪崩れ込めるように、
常に正面に兵を待機させておく必要があり、
悪い言い方をすれば絶対にそこに兵を置く必要があるが、
待機しているだけなので特別な強さや能力も必要ないという要素があります。
だからこそ、最弱の軍にぴったりの配置で、
同時に韓のプライドも満たす全軍の真ん中という立ち位置。
諸々考えた時に、これ程都合の良い場所はありません。
尤も、あれ程の毒使いが韓に居たとはさすがの李牧も知らなかったかもしれませんが、
韓兵の方にも明日は敵になるかもしれない相手に対し、
自分たちの実力を示す必要があったのでしょう。
盟主を自負する超大国・楚
今回の函谷関(かんこくかん)攻防戦において、
最も重要な戦地は当然のように楚(そ)が担当しました。
六国同盟(結果として五国同盟になりましたが)の盟主を自負し、
自らの国を超大国と自他共に認める楚は、
総大将として宰相(さいしょう)・春申君(しゅんしんくん)まで担ぎ出しています。
この函谷関攻めで最も重要なのは、
梯子が掛からない函谷関を正面から攻める軍ではなく、
その両脇を抜く軍勢こそ最も重要。
そして、平地の部分にあたる正面左側に最も強力で火力の強い軍勢を配置するという事において、
盟主を自負し絶対的な主役の誇りがある楚の立場と、
最も強力な軍にそこを任せるしかないという指揮官・李牧の思惑が一致します。
ただ、この戦いで楚が敗れるというのは李牧にとっても誤算だったでしょう。
それでも兵を裏に届かせた楚将・媧燐(かりん)の戦術に感嘆するばかりなのですが、
まさかその裏の攻防でも誤算が発生するとは、流石の李牧も思いもしなかった事でしょう。
王翦に手玉に取られた山攻めのスペシャリスト燕
楚が最も重要な両脇を抜く仕事を請け負った時、
実はもう一方の右脇を攻める軍の存在が重要になります。
極端な話、楚が失敗してもこの右の軍さえ裏に届けば
それで函谷関攻めは成功するからです。
ここでその右脇攻めを任されたのが燕(えん)でした。
これには明白な理由があります。
右脇は、地形的に山間戦になるからです。
そして恐らく守る秦(しん)の方は山に砦を築く技術に長けた
王翦(おうせん)が担当する事まで李牧は読んでいたでしょう。
燕の総大将を務めるオルドに王翦の情報を与えている事からも
織り込み済みだったでしょう。
そして他の軍ではなく燕が右脇攻めに抜擢されたのは、
最も山攻めに適した軍だからです。
それは、敵として相対していた李牧自身が一番良く分かっていたからこそ、
燕に右脇の山攻めを任せたでしょう。
まさか王翦に手玉に取られ、裏に届いた楚の軍勢まで
王翦に止められる事態になるのは、李牧には珍しい読み違いと言えますが、
山の民と平地の民の混成軍となる燕の攻めを心理戦だけで封じる事が出来る程、
王翦の戦術眼が上回っていたという事になります。
既にこの時から、後に激突する李牧と王翦の布石があったと言えるかもしれません。
李牧と呉鳳鳴。天才同士のやり取り
函谷関攻防戦において、最も名を上げた合従軍側の武将と言えば
魏(ぎ)の呉鳳鳴(ごほうめい)と言えるでしょう。
諸々考えて行けば分かるのですが、恐らく一斉に他の国から攻められた
秦(しん)が取る防衛手段は国門・函谷関を盾にする事が最適で、
それは誰が考えても明白な事実なのです。
そして函谷関を攻める陣容を考えた時、
魏の配置は到着前から呉鳳鳴には分かっていたのでしょう。
ここからは推測なのですが、函谷関を攻める為に
巨大な井蘭車(せいらんしゃ)と巨大な弩(ど)を用意して
難攻不落なあの門に初めて橋を架けた存在となる訳ですが、
普通では消耗戦を演じて門の前で準備しているしかない立場の位置で、
あれだけ見事な存在感を発揮したからこそ呉鳳鳴は最も名前の売れた合従軍の武将となる訳です。
そしてこれだけの準備は戦前から行っていなければなりませんが、
同時に出発前から李牧の戦術を読んでいなければ、
井蘭車などを運んでこない事でしょう。
そう思うと、呉鳳鳴だけは李牧に敢えて、自分たちが函谷関を攻めると伝え、
同時に、李牧もそういう配置にしようと考えていた事を、戦う前から分かっていた。
こう考えると、天才同士のやり取りは何手先まで読んでいるかのやり取りというのが、
つくづく感じられます。
何一つ落ち度のなかった李牧の戦術とこの戦いで最も評価を上げた秦の国王・嬴政
最後に李牧が率いて来た趙(ちょう)の配置ですが、
これはもう明らかに切り札となった南道攻めを行う為の配置です。
秦(しん)の王都・咸陽(かんよう)を訪れた事のある李牧は、
その国門・函谷関の大きさや頑強さを目の当たりにして知っています。
ここを正面から抜くのは至難の業なので、両脇を抜くのが常套手段となるのですが、
最悪の場合、抜けない可能性も考えていた事でしょう。
そして、だからこそ南道攻めだったのです。
この道は山間で曲がりくねっている為、十万規模の大軍勢で動くには適しません。
実際、李牧が攻めた時も3万の軍勢です。
そしてその規模の軍勢で秦を攻め滅ぼすには、他の軍勢を引き留めておく必要があるのです。
つまり、その為の合従軍だったのではないか?とすら、思えてくるのです。
最も手っ取り早く秦を追い詰める楚趙同盟だけでは、
函谷関に秦の全軍を引き留めておくには戦力不足です。
そこまでの兵力を秦に投入した時に他の国から攻められたらひとたまりもないからです。
でも、合従軍だったら、それが可能になる。
そして、切り札の南道攻めを行えば、十中八九成功する。
だからこそ李牧の南道攻めは秦を恐怖のどん底に突き落とし、
絶体絶命まで追い詰めるのですが、ここを持ち堪えたからこそ、
逆に秦の嬴政(えいせい)は英雄王と呼ばれるようになってしまうのです。
こう考えると李牧の戦術に誤りはなく、それを秦の武将たちがことごとく上回り、
最後には国王が想像以上の奮戦をして国を守り抜いた。そう、言えるのかもしれません。
危機を乗り越える事で人も国も強くなる様を描いているキングダムですが、
こう考えると合従軍との対決で最も評価を上げたのは、
秦の国王・嬴政だったという事がよく分かります。
さすがは、後の秦の始皇帝ですね。
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いかがでしたか?
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